エクサウィザーズ誕生までのアナザーストーリー。プログラミングとケアの二刀流取締役 坂根裕の軌跡(前編)
これは起業家や起業を目指す人なら読んだことも多いであろう『HARD THINGS』からの一説だ。
エクサウィザーズが合併する前の組織、デジタルセンセーションで社長を務めていた坂根裕さん。
3歳からプログラミングを始め、その歴は40年を超える。プログラミングだけでなく、フランスで誕生したコミュニケーションケア技法「ユマニチュード」*のインストラクター資格も持っている。取得した当時、介護の専門職以外でこの資格を持っているのは、世界で彼以外にいなかった。
プログラミングとケア、二刀流のスペシャリストである彼の半生は、想像するだけで頭を抱えそうになる苦闘の連続だった。
5000万円の売り上げの消失、数ヶ月間治らない頭痛、断られ続ける投資、ケアの現場から抜け出せずコードを書けなかった1年。
ものづくり少年だった彼がなぜこのような人生を歩むことになったのか。どんな気持ちで困難を乗り越えて来たのか。そして、なぜ乗り越えられたのか。その軌跡を伺った。
阪大から静岡大学の教員へ、そしてスタートアップの設立へ
元々、起業するつもりなんて全くなくて、介護領域の課題もその世界に触れるまでほとんど知りませんでした。
私のファーストキャリアは静岡大学の教員から始まります。元々赴任する予定だった人の都合が付かなくなり、たまたま自分が選ばれたんです。大学へ赴任して3ヶ月が経つ頃、エクサウィザーズ元取締役の竹林洋一さんが教授として赴任してきました。
当時、私が下についていた先生から「竹林先生が、ネットワークの設定で困っているみたいだから、手伝ってあげてくれない?」と言われたことをきっかけに、竹林先生の研究室に出入りするようになります。竹林先生との出会いで、自分の人生のレールが大きく切り替わりました。
ある日、自分が所属している研究室に行ったら「今週から竹林先生の研究室だから」と言われまして。どうやら、僕が竹林先生の技術周りのお手伝いをしていた背景から、自分を助手として迎えたい、と話が進んでいたらしいんですね。それで、竹林先生の元で研究する生活が始まりました。
日夜研究を続けていると、あるとき、大学の起業家支援プログラムでのプレゼンをお願いされました。というのも、大学側が学内ベンチャーを増やすためにそれに参画する研究室を探していたんですね。それに採択されると事業化のために部屋がひとつ与えられるんです。
竹林先生は研究室の数を増やすことも狙っていて、僕にそれを依頼したのですが、僕自身は起業家支援プログラムだということは面接会場についてから知りました。研究用にまとめた資料を使ってプレゼンしたら、運よく通ったんです。当然なのですが、大学としては事業を立ち上げて欲しいので、そのための専門家の方を何人も派遣してくれるんです。その中の一人が起業のきっかけを作った、エクサウィザーズ元監査役の池永威彦さんでした。
意気投合した竹林先生と池永さんは、研究内容を事業化し会社を作ることを決めたようでした。もちろん、僕はこの時点ではなにも聞かされていません。
最初は、「会社を作るから手伝って欲しい」くらいのニュアンスでした。ところが、会社の設立直前で僕が社長をやることが決まりまして。大学が独立行政法人化する前だったので、社長になると大学を辞めないといけなかったんです。
結局、ギリギリのところで独立行政法人になったので、教員と兼業という形で落ち着きましたが、焦りましたね。社長就任が決まった翌日に大学に行ったら「坂根さん大学辞めるんだって!?」と言われて。そうしたバタバタを経て立ち上がったのが、デジタルセンセーションでした。
デジタルセンセーション時代の売掛金回収不能事件
起業したのはいいものの事業内容は全く固まっていませんでした。立ち上げた時に記者会見を開いたのですが、「どんな事業をするのでしょうか?」という質問に、「コンテンツ制作とかですね」と答えたくらい。普通に考えて絶対ダメだと思います...。
一方、曲がりなりにも3歳からプログラミングをやってきたので技術力への信頼は高く、受託の案件は入ってくる状況でした。従業員規模も15人ほどまで増え、彼らに給与を払うために、自分でプロジェクトを常に7、8件抱えながら事業を伸ばしていました。
年商が数千万後半ほどまで成長したある日、とある海外との共同開発プロジェクトとして予算数億の案件が舞い込んできました。
まずはデモを作って欲しいということで、一旦5000万円で契約を結びました。当時の売上から考えると大きな案件ですから、そこに多くの人員を充てますよね。なんとか開発して、納品しましたが、いつまで経ってもお金が振り込まれないんです。
当然、社員には給与を払わないといけないので、どんどん資金がなくなっていきます。「あと数週間後に何百万資金不足です」ということが何度も続いて。最初は個人で貸し付けていたのですが、それでも賄えなくなって、次は他の役員の方に出していただき、それでも足りなくなって、最後は役員報酬を止めたんです。すると、どうなるか。当時は大学を辞めて専業でしたので、自分の生活費がなくなり家計破綻一歩手前、残高数十円のところまで追い込まれました。
そんな状況を見かねたのか、池永さんから「もうちょっと周りの人を頼った方が良い」と言われたんですね。元々、人にものを頼むのが苦手なタイプだったんですが、背に腹は変えられないので、初めて借用書を書いて人からお金を借りました。書いているときは手が震えましたよ。
こうした会社の状況を苦しめたのは資金だけではありませんでした。一人、また一人と社員も辞めていきました。でも、状況が状況だけに無理に引き止めることもできなかった。
「もうこれは会社を畳んだ方が良いのかもしれない」。そんな思いもよぎるようになった僕を思い止まらせたのは、今もエクサウィザーズで働いているデザイナーの山本剛さんでした。
彼は普段寡黙な人なんですけど、あるご飯の席で「坂根さん」と口を開いて。「僕は会社を辞めた人が、辞めたことを後悔するような会社にしたい」って言ったんです。それでハッと目が覚めたというか、もう一踏ん張りしてみようと思ったんです。
そこでまず取り組んだのは、役員だけで形式的に行っていた株主総会に社員全員を呼び、会社の状況を全て説明すること。さらに、総会の最後の時間では社員への感謝の気持ちと「もう少しだけ協力して欲しい」と真摯に伝えるようにしました。それ以降、エクサインテリジェンス社と合併するまで、辞める人は一人も出ませんでした。
ユマニチュードとの出会い ジネスト先生との出会い
依然として自転車操業ではありましたが、会社の雰囲気は好転していきました。そのタイミングで出会ったのが、事業の軸の一つとなる「ユマニチュード」。ユマニチュードとは、フランス発祥のケア技法で、高齢者や認知症患者の方などに対して効果があると言われています。ユマニチュードの研修を日本で広めることに協力して欲しいと打診をいただいたのです。
ユマニチュードって、中身を何も知らない方から見ると、ケアを受けた方の様子がすごく変わる(改善される)ため、「魔法」と言われることもあるんです。でも実はきちんとした哲学と実践理論があり、理路整然としたロジックで構成されているんですね。実際にフランスからユマニチュードの創始者であるイヴ・ジネスト先生が来日して、研修の様子も見せていただいて。これは教育などにITが入る余地があるかもしれないと思いました。
ただ、相変わらずお金はなくて、それは正直に伝えました。都合の悪いことは先に伝える方が良いよと、池永さんに教わっていたんです。都合の悪いことを隠しても、後から気づかれて信頼を失うだけだから、最初に全部出した方が良い。それでも離れない人は、本当に助けてくれるからと。
そしたら、「最初はお金いらないよ」と即答して頂き、2015年の1月に第一回目の研修を行いました。ちょうど、研修を始める少し前にNHKでユマニチュードの特集が放送されていたこともあり、研修は5分ほどで完売したんです。
それから何回か研修を繰り返して、会社の状況も少しずつよくなってきた中で、ジネスト先生から「これを本格的に日本で広げるなら、日本の先生を育成する方がよいね。当然お金も必要になるけどどうする?」と聞かれたんです。いくら必要なのか一緒に試算したところ、結構な金額でした。当然、そんな資金は全くなくて。普通なら「資金不足ですね」と言うのですが、その時はなぜか「わかりました!」って即答してしまったんですよね。なんか、これはやらなきゃいけないって思って。
ジネスト先生が準備のためフランスに帰国された後、池永さんと相談し、とりあえず資金調達するしかないねと。ただ、自分は投資家の方へのプレゼンなんてやったこともなかったので、全く刺さらないんですよね。何冊も書籍を読み漁り、見様見真似で数字作ったりしたんですけど、まぁダメで。
そしたらジネスト先生から連絡が来て「6月1日から10週間の研修をする準備が整ったよ」と。その時すでに5月で、1ヶ月切ってました。そこから更に色々と回って、最終的には必要な金額を調達することができました。着金が5月の最終日でしたので、本当に間一髪でした。
6月1日にジネスト先生に会って、開口一番「なんとか資金が集まったよ!」と伝えました。まさか必要な資金がない状態で研修を承諾したとは思われてなくて、かなり驚かれた後「感動した!自分への支払いは要らない!」と。さらに各所と交渉してくださり、通訳や宿泊費など最低限必要なものだけの1/3程度の費用で済むようにしてくださいました。
ユマニチュードの研修期間、頭が痛くなる
ようやく10週間の研修が始まりました。見学兼、撮影係として、後ろでカメラの準備をしていると、僕のもとにも参加者名簿が回ってきました。上から名前を読んでいると、役職のところに「一般」と書かれていて、その横に自分の名前が書いてあったんです。
「あれ、自分も参加するんですか?」とジネスト先生に尋ねると「当たり前だろう!」と。ジネスト先生は凄く情に厚い方で、資金を集めてきたことや、社長だけど10週間の研修に参加することに心動かされたようで、参加者に入れて頂けたようでした。
とは言え、自分が何かすることはないだろうと後ろで見ていると、突然ジネスト先生から「坂根サン!今やったことを、先生のつもりで説明しながらやってみて」と声をかけられたんです。「なぜ専門家が多い中で素人の自分が、、、」と思いながらもなんとかこなすと、その後も何度か一番最初の実践練習をやることになりました。
当時の研修では週に1日、病院や施設などのケア現場に行く日がありました。現場に行くと、まずケアを受ける方の情報をいただくんですね。ただでさえ緊張しているのに、専門用語が多くほとんど内容を理解できず混乱しました。初めて自分がケアする人は、すごく気さくでいい人だから、そんなに不安がることないよと説明を受けた方でした。
ここまで来たらもう後には退けないわけで、「失礼しまーす!」と気合を入れて部屋に入り、研修で習った通りに距離を縮めていきました。序盤は会話も続くし、これは大丈夫ではと思って、「じゃあ、ご飯いきましょうか」と声をかけたら「あっち行って!」と、物凄く嫌な顔で言われたんです。
完全に思考がフリーズしてしまって、どうしたらいいのかと立ち尽くしていると、インストラクターの方がスッと入って来て、1分くらいで外に連れ出していったんです。ショックを受けていた自分にとって、その行動は一瞬の出来事のように思えて衝撃でしたね。
一度ケアで嫌な思いをした人は、嫌な思いをしたときの記憶と言葉が結びついているため、特定の言葉を聞くだけで嫌な気持ちになってしまうことがあります。今回の場合だと「ご飯」がそれに当たったのかなと。
ただ当時の自分では、なぜインストラクターの方がいとも簡単に連れ出せたのかわからなかった。
何より、結構な至近距離で相手の目を見ながら話していたため、拒否されたときの表情が脳裏に張り付いて、離れないんです。寝ているとその顔が思い浮かんで目が覚めたり、現場研修の前日から頭が痛くなるようになってしまいました。
ユマニチュードには出会いの準備、ケアの準備、知覚の連結、感情の固定、再会の約束、計5つのステップがあります。この5つのステップを初めて最後までやり切ることができたと実感したときに、ようやく頭痛からも解放されました。
2016年には、ユマニチュードのインストラクター認定試験を受けて、なんとか合格。当時、介護の専門職以外では初の合格者、プログラミングもできるユマニチュード認定インストラクターになったのです。
(後編へ続く)
(撮影時のみマスクを外しています。)